墨を一滴、紙の上に落とす。
きれいな丸になるかと思えば、そうはいかない。水は紙の中へ入り込み、墨も一緒についていく。片方へすっと伸びたかと思えば、別のところでは急に止まる。濃く残るところもあれば、いつの間にか輪郭が消えてしまうところもある。
書道でも水墨画でも、にじみは特別なものではない。失敗になることもあれば、そのにじみが思いがけずいい表情になることもある。
そんな墨のことを考えることになったのは、『ナタ 魔童の大暴れ』について資料を読んでいたときだった。
敖丙が武器を振るう、ほんの短い場面。墨が凍りながら広がっていくように見えるその表現は、わずか0.8秒ほどだという。
制作チームがそこにかけた時間は、9か月。
0.8秒に9か月。
これは、さすがに少し気になった。

墨は、思ったより勝手だった
最初は、かなり高度な映像効果の話なのだと思っていた。
輪郭を少しぼかして、紙の質感を加えて、黒い部分を自然に広げる。もちろん実際はもっと複雑だろうけれど、何となくそんなものを想像していた。
ところが、墨が実際に紙の上でどう動くのかを調べていると、そちらのほうがだんだん面白くなってきた。
中国画などで使われる宣紙では、水が紙の繊維の間へ入り込み、その流れに墨の粒子もついていく。すぐに広がるところもあれば、ほとんど動かないところもある。水の量が変われば形も変わるし、墨の濃さが違えば、また別のにじみ方になる。
同じようにもう一度やれば、同じ形になるのか。
たぶん、ならない。
絵なら、それも面白い。
ところがアニメーションには次の一枚がある。その次もある。
前のフレームでここにあったものが、次では少し動いている。その動きが続いて、やがて一つの場面になる。毎回まったく違うにじみ方をされると、少し困る。
かといって、全部をきれいに揃えてしまえば、今度は水墨らしくなくなる。
なかなか扱いにくい。
2006年には、上海大学の研究者たちが、水、墨の粒子、宣紙の繊維構造までモデル化して、墨が紙の上をどう広がるのかをコンピューター上で再現しようとしていた。
映画の特殊効果について調べていたはずなのに、いつの間にか紙の繊維の話を読んでいた。
まあ、こういうことはよくある。
そして、おたまじゃくしが出てきた
その途中で、『小蝌蚪找妈妈』という古い中国のアニメーションに行き当たった。
1961年に上海美術映画製作所が制作した作品で、中国では最初の水墨アニメーションとして知られている。斉白石の絵の世界をアニメーションにした作品としても紹介されている。
中国語の題名は『小蝌蚪找妈妈』。
文字どおり、おたまじゃくしがお母さんを探す話だ。
生まれたばかりのおたまじゃくしたちが、お母さんがどんな姿なのかも知らないまま池を泳ぎ、出会った動物たちに尋ねながら探していく。
話だけ聞けば、とても素朴である。
でも、画面を見ると少し驚く。
普通のアニメーションのように、輪郭のはっきりしたキャラクターが背景の上を動いているわけではない。おたまじゃくしも、水草も、石も、最初から一枚の水墨画の中にいたように見える。
そして、画面には意外なほど何もない。
少しの水草。
蓮の葉。
淡い水。
そこを黒いおたまじゃくしが泳いでいく。

おたまじゃくしだけを見れば、本当に簡単そうだ。
黒い丸のような体に、しっぽ。
ところが泳ぎ始めると、しっぽが曲がり、体が少し回り、形も変わる。それでも次の瞬間には、同じおたまじゃくしとして見えなければならない。
しかも、普通の黒いアニメキャラクターになってはいけない。
墨の輪郭は少しやわらかいまま。
でも、やわらかすぎても困る。
見ているうちに、あの小さな黒い形がだんだん面倒な存在に思えてきた。
水墨で描かれた動物には、こういう不思議さがよくある。

ひよこも、よく見るとそれほど多くは描かれていない。
墨のかたまりがいくつかあって、小さな脚とくちばしがある。
それだけなのに、一羽は地面をつついているように見えるし、別の一羽は何かを眺めているように見える。何となく性格まで違う気がしてくる。
絵というのは不思議なもので、全部描かなくても、見る側が勝手にいろいろ足してくれる。
ただ、それを動かすとなると話は別らしい。
しかも1961年。
コンピューターはない。
では、どうしたのだろう。
一枚ずつ描けばいい、という話でもなかった
最初は、水墨画を一枚ずつ描いて撮影したのだと思っていた。
そうではなかった。
考えてみれば、同じ墨を同じように何百回もにじませるのは難しい。毎回少しずつ違ってしまえば、動かす以前に同じ形を保つことさえ大変になる。
そこで上海美術映画製作所では、一つの画面をそのまま描くのではなく、墨の濃さやぼかし方を分けて扱っていた。
アニメーターの厳定憲は後に、「大虚」「中虚」「小虚」「全実」といった異なる状態の絵を用意していたと振り返っている。
一匹のおたまじゃくし。
一つのフレーム。
それでも、何枚もの絵が必要になる。
撮影では、それらを多重露光で重ねていく。場合によっては一つのフレームに4枚の絵を使い、4回撮影する。
そして、次のフレームが来る。
その次も来る。
作品は20分ほどある。
何枚描いたのだろう。
少し考えたけれど、途中でやめた。

少し面白いのは、完成したおたまじゃくしが、一枚の絵として最初から存在していたとは限らないことだ。
何枚かに分かれていたものを撮影で重ね、そこで初めて、あのやわらかな一匹になる。
それだけ手をかけても、完成した作品の中では普通に泳いでいる。
別に大変そうな顔もしない。
もちろん、おたまじゃくしなので当たり前なのだけれど。
しばらく昔の映像を眺めていた。
おたまじゃくしたちは、相変わらずお母さんを探している。
そういえば、『ナタ』の話だった
古い水墨アニメーションのほうにすっかり寄り道してしまった。
最初に見つけた数字は、0.8秒と9か月だった。
2025年のアニメーション制作は、当然ながら1961年とはまったく違う。3Dアニメーションがあり、粒子システムがあり、コンピューターもある。処理できる情報量だけを考えても、当時とは比べものにならない。
それでも、『ナタ 魔童の大暴れ』で敖丙が武器を振るう短い場面では、墨が凍りながらにじんでいくような動きをつくらなければならなかった。
制作チームはその表現に9か月をかけ、その過程で「動的水墨レンダリングエンジン」を開発したという。宣紙の上で墨がにじみ、浸透していく動きを、3Dアニメーションの中で再現するためのものだった。
1961年には、おたまじゃくしを何種類にも分けて描いていた。
今は、コンピューターの中で水や墨の動きを計算している。
ずいぶん便利になったように聞こえる。
9か月と聞くと、そうでもない気もする。
もう一度見ると
この記事を書いている途中で、『小蝌蚪找妈妈』をまた少し見た。
作り方を知ったあとなら、何か違って見えるのではないかと思った。
それほどでもなかった。
おたまじゃくしはやっぱりおたまじゃくしで、池の中を泳ぎながらお母さんを探している。
水草があり、淡い水があり、白いところがたくさんある。
そして、小さな黒い形が動く。
あれほど手のかかったものなのだから、もっと「すごいもの」に見えてもよさそうなのに、相変わらずとても静かだ。
しばらく見ていたら、一匹のおたまじゃくしが画面の端へ泳いでいった。
こちらが制作方法について考えている間にも、向こうは特に気にする様子もなく、先へ行ってしまった。
参考資料と関連情報
- 科技日報. 「技術で感情を伝え、テクノロジーで中国アニメを支える」
- 劉巍巍/新華網(『半月談』評論員). 「小さなナタは、なぜ巨大な映画市場を揺るがしたのか?」
- 『人民日報』文芸/中国国家広播電視総局. 「中国アニメ100年――典型の創造から名作の誕生へ」
- 龔丹韻/解放日報(中国作家網転載). 「追随者ではなく、先導者に――アニメーション監督・厳定憲への独占インタビュー」
- 陳鋒、張文俊、張目/『上海大学学報(自然科学版)』. 「動的拡散メカニズムに基づく水墨シミュレーションモデル」

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